真実の攻防〜第3部

  • 2008/06/16(月) 13:17:29

 いよいよ本日より沖縄戦集団自決問題を描く連載「真実の攻防」第3部がスタートしました。
 ところで、今日の記事に出てくる樺太の悲劇を描いた映画「氷雪の門」をご存知でしょうか?不可侵条約を破って樺太にも侵攻し、8/15の終戦後も全島占領のために攻撃を続けたソ連軍の蛮行と最後まで電話交換手として真岡郵便局に残り、集団自決していった若き女性たちの悲劇を映像化したものです。当時、ソ連の横槍が入り映画館での上映ができなかったといういわく付きの作品です。有志による自主上映会が各地で開かれているという話を聞いたことがありますが、DVD化されて販売されてますので、ご関心のある方は?サンエイト(?03-3770-0768)まで



 2008/6/16付 世界日報1面 【連載】 
沖縄戦「集団自決」から63年〜第3部 <1>
真実の攻防


樺太の悲劇?


 札幌駅から特急に乗り換えて五時間半、稚内を訪ねたのは四月の下旬だった。ミズバショウの群生が遅い春の到来を告げていた。だが、“風の町”稚内を歩くとまだまだ肌寒かった。
 先の大戦で、国内で住民の集団自決が起きたのは、慶良間諸島のほかに樺太でも起きている。戦時中の集団自決の実相に迫るべく、この地を訪ねたのであった。

 両者は、いろいろと対照的である。地理的には、慶良間諸島と樺太は、日本の両端に位置する。米軍が本島に上陸した昭和二十(一九四五)年四月一日から沖縄戦は本格化するが、それ以前に、慶良間諸島の集団自決は起きた。戦争は日本がポツダム宣言を受け入れ、八月十五日で敗戦となるが、樺太の住民にとっての「戦争」は、その前後から始まった。ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄、侵攻したためだ。

 樺太の地は、アイヌなどの先住民族と日本人とロシア人が雑居する形で明治維新を迎えた。明治三十八(一九〇五)年のポーツマス会議で、北緯五〇度までが日本領となり、二年後にはコルサコフに樺太庁が発足。鉄道、道路、港などのインフラが整備され、漁業、林業、石油、石炭開発などで活況を呈した北の大地に、多くの日本人が移り住み、終戦時は約四十五、六万人までに膨れ上がっていた。

 そこにソ連軍が空、陸、海から一気に侵攻。住民は一瞬にして大混乱に陥ったのである…

 ソ連参戦で阿鼻叫喚の住民

 各地でわれ先に港に向かい、避難しようとする人々の群れ。そこに容赦なく、ソ連軍が攻撃した。樺太の北部、恵須取―内路間にある百六?に及ぶ内恵道路にも、避難民は太い川のようになって南下したのだが――。

 <この避難民の流れをソ連機がしばしば襲った。多くは婦女子の列と知っての威かくとみられたが、逃げまどう人の群れに無差別な機銃掃射や爆撃が加えられたこともあり死傷者がでた。悲惨なのは機銃弾で死んだ母親の死体にすがって泣く幼児。子供を失って発狂する母親。若い人たちについて歩けないと自ら離れていき死を待つ老人。取り残されるかもしれない不安から足手まといの幼な子を断崖からつき落としたり、死が待つばかりの草むらにえい児を捨て、わずかなミルクを残していく母親などもいた。そして絶望的な逃避に疲れ、劇薬をあおり、手榴弾を胸に抱いて一家が自決する惨劇も相次いだ>(樺太終戦史刊行会編纂『樺太終戦史』より)

 日本軍は戦闘を避けようと、真岡市街でも住民の中にかなりの死傷者が出ていることを知りつつも、交戦を禁じ、停戦のための軍使派遣を命じた。

 八月二十日朝、ソ連軍の先兵が豊真山道入り口付近にいるのを確認、白旗を掲げた上等兵を先頭にして村田徳兵中尉が軍使となり、護衛兵とともに交渉に向かった。だが、ソ連兵は日本兵の武装を解かせ、軍犬を電柱に縛り付けるよう要求。その上でいきなり銃口を日本兵に向けて乱射したのだった。白旗を掲げた豊原市の駅前に殺到した避難民にも、ソ連軍は銃弾を浴びせた……。

 こうして、わずか二週間で住民・兵士ら約四千三百人が亡くなった。この間に、七万八千人が内地に引き揚げることができた。だが、樺太に残された人は殺されるか、占領下で強制労働をさせられるか、遠くシベリアに抑留され、二度と日本の地を踏めなかった人々も数多い。幸い命が助かった人も、それまで汗水流して築き上げた土地財産の一切をソ連に奪われてしまったのである。

 捨て身で娘たちを守る老女も

 ある会社員は、妹を陵辱しようとするソ連兵を制止しようとして銃殺された。婦女子らが仮泊していた真岡町の小学校に、ソ連兵数人が押し掛けて「マダムダワイ(女を出せ)、マダムダワイ」と叫んで、女性を連行しようとした。その時、七十歳くらいの老女が立ち上がり、「私が行ってやる。ほかの者には手を触れるな」と兵士を外に追い出した。老女は輪姦され、翌日、死体となって発見された。

 入院していた重病者看護のために最後まで大平神社の防空壕に踏みとどまっていた看護婦二十三人の近くにも、ソ連兵が迫った。八月十六日のことだ。避難する内恵道路にも既にソ連兵が立ちはだかっていることを確認した高橋ふみ子婦長は、「この若い看護婦たちを無事な姿で親元に帰せないならば、死を選ぶことよりほかにない」と覚悟。用意していた青酸カリを注射または飲み干した。致死量に足りず十七人が蘇生したが、六人は死んでいった。

(編集委員・鴨野 守)


The Sekai Nippo Co.,Ltd. 1975- Tokyo,Japan 

http://www.worldtimes.co.jp/


このエントリーをはてなブックマークに追加
LINEで送る

この記事に対するトラックバック

この記事のトラックバックURL

この記事に対するコメント

この記事にコメントする

管理者にだけ表示を許可する