秘話〜高橋是清とジェイコブ・シフ

  • 2009/12/30(水) 11:28:12

 今年も早いもので、もう年末を迎えました。それはそれとしまして、年末になると閉口するものが2つあります。1つ目は、スーパーでの買い物です。しょうがないと言えばしょうがないのですが、棚に並ぶのは正月用の品ばかり。しかもこれがやたら高いとくるから困りものです。


 この時期必ず出てくるのが、「まるう」のかまぼこと「鈴廣」のかまぼこで、どこでも大体800円前後で売ってます。昔、魚屋にいたことがあるのでわかりますが、鈴廣のほうがなぜか微妙に高くて、50〜100円高に設定されてます。でも味はまるうの方がいいともっぱらでしたが…。

紀文もこの時期だけは高値設定をしますが、かつての味の良さはなくなり、名前だけの企業になってしまったようです。まあそんなことはどうでもいいのですが、ことほど左様にご祝儀相場にされてしまうので、普通に食べたいと思うものが買いづらくなってしまうというのが1点目です。

 2つ目は、テレビ番組です。こちらもこの時期になるとやたらと時間をとるだけの長時間番組や再放送、あるいはただ単にカットされてた未放送分を編集しただけの番組などで埋め尽くされ、まともに見れる番組が見当たらなくなってしまうということです。まあもっとも普段からほとんどテレビは見なくなってしまったので、エリカ様ではありませんが“べつに”というところなんですが、それにしても最近の番組は視聴率とスポンサーばかりを気にした安易な作りのものがあまりにも多いんじゃないでしょうか?

 さて、そんなこんなで今年も今日を入れてあと2日。本店からは無慈悲に「増紙せよ!」との命令がきておりますので、これで本年の更新は終わりにしたいと思います。
 拙ブログを読んでいただいた皆さま、1年間お付き合いありがとうございました。

 良い国、良い日本人たるべく、来年を良い年としていきましょう!


 
 2009/12/30付 世界日報12面 【ビューポイント】
高橋是清とジェイコブ・シフ

 −強く臨めたポーツマス会議−


     獨協大学教授 佐藤 唯行

 日露戦争の戦費を調達

 読者諸氏はジェイコブ・シフという名を御存知だろうか。日露戦争のさなか、戦費不足に苦しむ日本政府のために資金調達の大任を帯びた日銀副総裁、高橋是清を助けた人物である。

当時、欧米人の目には日本人は「巨人に挑む大胆な童」と映じていた。それ故、日本の勝利を危ぶむ外国人銀行家は多く、高橋は資金調達に大変苦労していた。そんなおり、日本の経済状況と国民の戦意について高橋に詳しく尋ねる人物が登場する。そして自分が日本公債を売りさばいてあげようと約束してくれたのである。

この人物こそ当時、ウォール街のユダヤ系投資銀行の雄、クーン・ローブ社のジェイコブ・シフであった…

 シフが自身の人脈で販売してくれた日本公債は2億円。それは日本の戦費全体の4分の1弱に相当する金額であった。この金で代価1300万円の三笠をはじめ最新鋭の戦艦を英国から購入し、日本は勝利を収めることができたのである。

1905年、高橋が第3回目の日本公債発売の準備を進めていた時、シフはNY市場はもう日本公債が供給過剰だと判断し、娘の嫁ぎ先であるドイツのユダヤ財閥ウォーバーグ家に打電し、ドイツ市場での販売を依頼した。(ユダヤ人投資銀行家間の結束は強く、血縁で結ばれた同族集団を形成していたのである)。

ウォーバーグ家が引き受けたことでドイツ市場での日本公債の売れゆきは好調で同年9月ポーツマス講和会議で日本の外交的立場を強化した。何故なら第3回目の公債販売は講和談判が決裂した場合の備えだったからである。日本公債をシフが引き受けた理由は彼がユダヤ人であったからだ。

 その理由についてシフは「(日本の勝利は)ロシアの独裁政権崩壊を導くだろう。それはロシア・ユダヤ人にとり良いことだ」と後に記している。在米ユダヤ人社会の指導者シフは当時ユダヤ人を酷く迫害していた帝政ロシアを憎み、そのロシアを倒そうとしていた日本を助けるために、高い金融上のリスクをあえてとろうとしたのである。

 シフの功績に感謝した日本政府は1906年3月、彼を日本に招待した。シフは宮中の御宴で明治天皇への拝謁を賜る栄に浴し、更に外国人として初めて旭日章を授けられたのである。一般国民が抱いた感謝の念も大きかった。

シフ自筆の『日本旅行記』1906年5月14日の稿には、自分の虫歯を治療してくれた日本人歯科医が「シフ様からはいかなる代金も頂く訳にはまいりません」と治療代の受け取りを固辞したという逸話が登場する。

また京都滞在中の4月25日にはこんなエピソードも記されている。それはシフ一行が観光地巡りの途中、川の向こう岸へ渡りたいのだが橋も舟もない。すると一行は某日本人家族が乗っている遊覧用ボートを発見。
 ガイドが事情を話し、また一行が何者であるかを打ち明けるとその家族は快く対岸まで一行を運んでくれたという。

日本人が自分に示した好意をシフは「実に感動的だ」と記している。歓待の背景には「日本の大恩人」シフの訪日、皇居での叙勲の模様を大々的に報じ続けた新聞報道があった。当時最も読者が多かった読売新聞だけで、2カ月に及ぶ訪日中、実に31件の記事をシフについて報じている程であった。記事の大半は紙面第1頁か2頁という扱いであった。

 帰米後もシフと高橋の友情は終生にわたり続く。両者を結びつけた基盤は卓越した銀行家として互いを認めあっていた点ばかりではない。10代初めに単身渡米し、数々の冒険を経験した共通点。渡米後のシフがドイツ・ユダヤの伝統に強く固執した様に、高橋も異境にありながら日本古来の美徳を大切にした人物であった点も重要である。共に国際的視野の持ち主でありながら民族的・宗教的伝統を重んじた人物だったといえよう。

 シフは高橋のひとり娘、和喜子に米留学を勧め、1906年から3年間にわたり、家族の一員として自宅でその面倒をみた。この間、和喜子がキリスト教の布教圧力に曝されぬよう細心の注意を怠らなかった。

彼自身、米国内の宗教的少数派に属したシフは、いまだ15歳にすぎず、判断力が乏しい和喜子が彼女自身の宗教基盤(神道)を守り抜くことに自分が責任を有していると感じていたのである。YWCAからのクリスマスプレゼントとして和喜子に本が贈られてきた時もシフはそれをつき返している。献本の目的がキリスト教への改宗にあったからである。

 和喜子はその後、今日に至るまで続く両家交流のかけ橋となった。和喜子の孫、安田信氏(ヤスダ・イー・エム・ピー・リミテッド社長)が1960年代初め、米留学中に、シフの孫、フレッドライチ・ウォーバーグの屋敷で歓迎パーティーに招待されている。シフ訪日100周年の2006年にはフレッドライチの姪が100年にわたり続くシフ・高橋両一族の友情を祝うために安田信氏のもとを訪れている。

The Sekai Nippo Co.,Ltd. 1975- Tokyo,Japan

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