民主主義とは何か

  • 2009/03/20(金) 16:57:30

 こういう事件を見るにつけ、韓国がいかに「夜郎自大」な国であり、「身分差別」をはじめとした各種の「差別」が激しい国かを感じます。日本への異様なまでのライバル意識(サッカーにしろ野球にしろ)の背景にも、自分たちこそ文化・文明の発信地であり、本来身分が上なんだというやっかみとプライドが見え隠れします。民度が低いと言われる所以です。

【地球だより】芸能界に巣くう闇−韓国から
 昨年、日本のお茶の間でも知られていた人気女優チェ・ジンシルさんが自殺した際、芸能界出身のある事業家からこんな話を聞かされた。「韓国の女優たちはね、売れる前はある程度“貢ぐ”(性接待や酒席への同伴)しかない。これに逆らえば芸能人生も終わりさ」
 チェさんの場合、悪質なインターネット上の書き込みが原因だったというから、そのときは半信半疑で、あまり気にも留めなかった。ところが先日、人気ドラマ「コッポダナムジャ(花より男子)」の出演女優が自殺した事件で、性接待を繰り返し強要されたことを思わせる直筆の紙切れが発見され、韓国芸能界の怖さがじわじわと伝わってくる思いだ。

 紙切れには「私は力のない新人俳優。この苦痛から逃れたい」と記されていた。この「苦痛」こそ、性接待のことを指すというのが専らの見方だ。紙切れは、テレビ局の記者が、自殺した女優の元マネジャー事務所を訪れたときに偶然、ゴミ袋の中から発見した。端が燃やされたり、破られたりした幾つかの紙切れを組み合わせて判読できたというから、女優の所属プロダクションが証拠隠滅を図った疑惑も浮上している。

 警察は性接待相手とみられるリストを確保したと明らかにしたが、この中には大企業の役員や有名スポーツ選手の名も含まれるといううわさまで飛び交っている。

 「コッポダ……」は、日本の人気ドラマ「花より男子」の韓国版で、これを見ずに会話についていけないといわれるほど、中高生必見の番組。それだけに出演女優の自殺は芸能界の裏事情を伝えるのに十分過ぎるほどの役割を果たし、政府も悪しき慣行にメスを入れる構えだ。
(3/20付け本紙7面 コリアのページより)


 それでは、本日の記事紹介です。
久保田先生のコラムはいつも含蓄があり、示唆に富んでます

2009/3/20付 世界日報16面 【ビューポイント】
民主主義とは何かの検討を

主権在民に問題ないか
謙虚に認識すべき「人間観」
NPO法人修学院院長・アジア太平洋交流学会代表理事 
 久保田 信之



 薬害訴訟に限らず、最近「国を相手に戦う」と意気込む市民運動がマスコミ等で大きく取り上げられている。これらはいずれも、市民や個人を「善」とし国および国家を「悪」として問題を組みたてるといった共通性があるように思えてならない。即ち、善良なる個々人の自由意志を圧迫し歪める危険な存在が国であり国家であると決めてかかっているようだ。

 独裁専制を否定して主権在民を謳った民主主義を、「非の打ち所のない理想である」と決めてかかり、国ないし国家は可能な限り主権者たる個々人の欲求を実現する方向に努力すべきだというのが、日本の言論界の基本姿勢であった。この前提に立てば「国のために命を捧げる」とか「祖国の平和と繁栄のために個々人が犠牲を払う」ことなど考えられなくなっても不思議はないのだ。「日本人の常識では、愛国心は育たない」と断言せざるを得ない状況にあることを、改めて問題にしなければならないと思うのである…

 リンカーンの有名な言葉として「人民の、人民による、人民のための政治」が「民主主義」を語るときの基盤になっているようだが、この古典的な民主主義と、かつてのソ連邦、東欧、そして現在の中国、ベトナムさらには北朝鮮などが名乗っている『人民民主主義』とは大きな違いがあり、さらには北欧を中心に発達した『社会民主主義』とも違う面が見える現代、改めて「民主主義とは何か」を検討しなくてならない時期に来ているように思えてならない。

 そもそも米国の独立宣言や仏国の人権宣言に端を発する「民主主義」の原理的内容は「人間の自由、平等、主権在民、革命の権利の容認」を大前提とするものであった。

 この「民主主義」を支えていたのは、絶対的価値である「神」に捧げるサクリファイス(sacrifice)の思想であるが、この「大いなるものとの一体化」といった独特の思想があってこそ「主権在民」も歯止めを持ったのである。しかし、近代合理主義や個人主義が蔓延してきたためこの共通基盤は弱まり、私を絶対化して主張し、私を超えた価値など認められなくなったのである。現在の日本はこの最たる国かもしれない。

 現在の日本では、個々人の欲望の代名詞でしかない「基本的人権」という言葉が「最高価値」になってしまったがために、己の幸せと繁栄だけを追求して恥じない「低俗な主権者」が『民主主義』を勝手に解釈し乱用しているのである。

 自己の安寧と快楽を基盤に置きやすい「ブルジョア民主主義」が、プロレタリアートの自由・平等をないがしろにする「ブルジョア独裁」をもたらした、との不信感から、第二次大戦後、東欧、中国、ベトナム、北朝鮮その他では「人民民主主義」思想が賞賛されて受け入れられた。

 これにしがみついている国が、言うまでもなく中華人民共和国だが、伝統的に「『愚かな人民』を幸福にする偉大なる権力者の出現」を待ち望む風土があるために権力者に不都合な情報を一掃する検閲機関すら「人民民主主義」を守るために重要な役割を担っているとして許容されているのが現状である。

 北朝鮮は言うまでもないことだが、シンガポールでも、「米国型民主主義の道は歩まない。小さな脆弱な国には強力な政府が生き残りのために必要だ」と強調して「国安に害のある情報は徹底的に排除する」と息巻いている。

 これら個々人の自由を制限する独裁政治を「ブルジョア民主主義の横暴から人民を救済するため」と、その正当性を力説しているのである。

 中世封建社会の独裁・専制の悲劇から人民を救済する有効な方便として「民主主義」は出現したが、自由を大幅に保有する人民と自殺する自由しか持たざる人民という悲惨な格差を産んだ。しかし、この修正案として提唱された「人民民主主義」も新たなる独裁体制を出現させた。この他、社会政策を優先させて個々人の自由を制限する「社会民主主義」は、「高負担・高福祉」を柱に北欧を中心に実施されているが、野心に燃えた若者には歓迎されず若者の海外流出が問題になっている。

 いずれにせよ、「民主主義」は、再検討を要する理論であり方法であることは否定できない。

 現在われわれに求められている課題は、民主主義を支えてきた最も重要な「人間観」を再検討することであろう。

 今こそ、人間の傲慢さに気づき、大いなる他者の慈愛に感謝し、様々な力に依存しながら「お蔭様」で生存していられる「弱い存在」でしかないことを謙虚に認識する必要があるのである。「雑草という草はない!」ように、踏み潰し使い捨ててもよい人間などはいないのだ。人間は誰しも「尊いかけがえのない価値」を持った存在なのである。

 これを教え実践してきたのが日本の歴史なのだ。こうした「日本人の智恵」を再評価してみるのも、西洋式民主主義が行き詰まっている現在、有効なのではあるまいか。

The Sekai Nippo Co.,Ltd. 1975- Tokyo,Japan

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