チベット弾圧50年〜拷問、強制労働、言語強制

  • 2009/03/11(水) 14:50:49

 昨日、3月10日は、わが国にとっても東京大空襲という忘れがたい日ですが、50年前に中国の侵略を受け、国体そのものを失ってしまったチベットの人々にとっては、それ以上に忘れがたい日がこの「3.10」だと思います。

 以下は、平成14年12月22日のサンデー版に掲載されました亡命尼僧ガワン・ワンドゥンさんの証言です。これを読めば、以下に中国という国家が人権のかけらもない野蛮な覇権国家かということがよくわかります。
 “平和の祭典オリンピック開催”がいかに茶番だったか、もう1度思いおこしていただければと思います。
  「宗教はアヘン」、「人間も物質扱い」〜これが共産主義の本質です。 


弾圧の実態明らかに  
 ヒマラヤ越え亡命の尼僧が証言

 チべットは、つい50年ほど前まで、2000年以上の文化と歴史を誇る独立国家だった。1913年にはモンゴルと蒙蔵条約が、14年にはイギリスとシムラ条約が締結されていることからも、チべットが完全な独立国家として認識されていたことが明らかである。

 しかし、49年から共産中国の侵略が始まった。中国の軍事的威嚇のもとで51年に「十七条協定」に調印させられ、中国人民解放軍がチべットのラサに進駐した。この協定では、中国が他の地方で行っていた共産主義による急激な改革を、チべットには強制しないとされていた。

しかし、実際には、僧院を中心としたチべット社会の伝統的仕組みは破壊され、土地は勝手に分配され、遊牧民は定住を強制された。中国は徐々にチべット領の併合を進め、65年、チべット領は完全に中国に併合された。

59年、ラサでチべット人による大規模な反乱が起こる。これを機にダライ・ラマ十四世はインドへ亡命せざるを得なくなった。続いて起こった文化大革命(67〜76年)では、共産主義イデオロギーによって、チべットの6000を超える僧院と膨大な数の芸術品が破壊された。

「文化大革命」が終息した70年代後半、中国がこれまでのチべット政策の失敗を認めて、チべット文化の見直しや宗教の復活などを認めた時期があった。しかしチべット人たちが再びチべット独立や宗教的自由を訴え始めると、中国は再び暴力で抑えにかかる。チべット人によるデモは次第に大規模になり、89年3月ラサに戒厳令が敷かれる。90年5月に解除されてはいるものの、現在に至るまで中国は強硬策を緩めていない。

 13歳で出家したガワン・ワンドゥンさんが、チべットの自由と独立のために仲間の尼僧ら5人とともにラサで独立を訴えるデモを行ったのは92年2月3日のこと。 「チべット独立!」と叫びほんの5分間だけのデモだったが、すぐ警官に取り囲まれトラックに乗せられた。そして、護送される車の中で殴るけるの暴行を受けて、グツァ刑務所に収監されたという…

 刑務所では「デモの黒幕は誰だ」と厳しく追及され拷問を受けた。彼女は以前、逮捕された尼僧たちに食事の差し入れをしたことがあり、デモを行うとどういう結果になるかは分かっていた。だが、2時間ほどこん棒で殴られ、ブーツでけり上げられ「これほどまでにひどいとは思わなかった」と語る。幼い少女にもこのようなひどい拷問が行われていると明かした。

その後、尋問室から外の広場に出され、 「ずっと腕を上げていろ」と命じられ、少しでも腕を下ろすと殴られるといった拷問が続いた。ようやく拷問から解放され独房へ連れ出される時、すれ違った仲間の尼僧たちの顔は、まるで別人のようにはれあがっていたという。

 独房に収容されてからも、4日おきくらいに拷問を受けた。
独房は窓もなく昼か夜かも分からない状態で、いつ拷問に呼ばれるのか分からない恐怖と寒さの中で震える日々を送った。1ヵ月半ほど独房に入れられ、ようやく4人部屋に移された。そこはトイレ代わりにバケツ1つがあるだけで、皆それで用を足さなければならず、いつも汚臭が部屋に充満している不衛生な環境だった。

そしてその日から、裁判のないまま強制労働に駆り出された。 「一番きつかったのは、肥えだめに腰までつかり、素手でバケツに入れ、くみ出す仕事です」と彼女は語る。汚れた手や服を洗うことも許されず、そのまま食事をしたこともあった。食事は貧しく、朝はお茶とパン一切れ、昼はパン一切れ、夜もパンだけだったのでいつもお腹をすかせ、皆病気になってしまった。仲間が病院に連れていかれても、まともな治療を受けた形跡はなかった。

こうして何の刑も執行されないまま半年が過ぎ、一刻も早くこの状態を打開するため、刑を決めてもらうよう当局に嘆願書を送った。そして、まともな裁判もないまま通知が来て、ティサム刑務所での3年の懲役刑が下された。

ティサム刑務所は厳しい規律があり、強制労働のノルマが課され、それを満たさなければ刑期が延ばされる。さらに、軍事訓練を強制され、まともな食事もできないまま、朝から何時間も行進をさせられたり、中国語で中国共産党をたたえる歌を歌わされたりした。中国語ができないと、集団で殴るけるの拷問を受けた。仲間の尼僧はほとんどが貧しい農村の出身で、十分な教育も受けておらず、中国語をまともに話せるわけがなかった。

彼女は何度も倒れ、ようやく手術が必要ということで17日間入院することになった。しかし、きちんとした手術ではなく、傷口がふさがらないうちに、すぐに刑務所に連れ戻され、その日から強制労働、軍事訓練を強いられた。

それでも、彼女は12人の尼僧たちとともにチべットの独立を求める歌を歌った。するとすぐに、100人近い監守に取り囲まれ、後ろ手に縛られ殴るけるの拷問を受けた。電気棒で電気ショックも与えられた。間違いだと認めれば許すと言われたが誰も認めず、拷問を受け続け辺りは血の海になった。それは、夜の10時から朝の3時まで続いた。

 その後、独房に収容されたが、そこは1人横たわるだけの広さしかなく、窓もなく毛布もなかった。床には前の収監者の汚物がそのまま残っていた。1日1回、用足しのために独房を出ることが許されるだけで、7日間収容された後、尋問室に呼ばれた。再び拷問を受け、髪を引っ張られ、耳も引っ張られたため左耳が半分ちぎれてしまった。
そして、気を失うとバケツで水をかけられ、気が付くとまた拷問が始まるというありさまだった。

仲間の尼僧のシェーラブ・ンガワンさんは、刑務所で死なれては困るという理由で釈放され、数日後亡くなった。彼女の体はあざだらけで拷問が原因で亡くなったことは明らかだった。ワンドゥンさんは、95年2月3日に釈放されたが、その後も夜いきなり、当局が家宅捜索にやってきたりするなど常に監視され嫌がらせを受けていた。尼僧に戻ることも許されず、どこに行くにも当局の許可が必要だった。

そこでついに、インドへ亡命しようと決意した。22日間、雪のヒマラヤを越えてインドへ脱出した。これは、 「自分の経験を語り世界中にチべットの現実を伝えたい思いと、ダライ・ラマ法王に会いたいという気持ちからのもの」だったという。ダラムサラに着き、ダライ・ラマ法王に初めて会ったときのことは、彼女の一生で忘れられない大切な思い出になった。

 98年の時点で、政治的、宗教的理由で中国の刑務所に投獄されているチべット人は、1,083人が確認されており、そのうち246人が女性、12人が末成年である。

そのほかにも中国は、チべットに核実検場を作り、核廃棄物や産業廃棄物の捨て場にし、また貴重な野生動物を乱獲しているといわれる。森林の豊富な東チべットでの乱伐は、98年の揚子江水害の原因にもなった。

また、日本の6倍の面積に日本の20分の1の人口しかいない人口希薄なチべットに、中国本土から大勢の中国人を移住させる動きも盛んに行われている。
移住者は、税金面で優遇され高給をもらう一方、チべット人から仕事を奪っている。そして、識字率は25%しかなく中国語を強いられ、チベット人の避妊手術を強制的に行い、チべット民族そのものを抹殺しようとする政策が行われているという。

先月、中国共産党大会で新しく総書記に選出された胡錦濤氏は、80年代から90年代初めにかけ、チべット自治区党委書記として当地の弾圧を指揮していた人物。中国のチべット弾圧政策が緩和される見込みはまずない。
このようなチべットの現状に対し、日本政府をはじめ民主主義各国は、何の行動も取らず見て見ぬふりをし続けている。共産主義イデオロギーのもとで、いまも行われている拷問や非人道的な行為を、黙って見過ごしてはいけない。


 ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
  ザトゥル・リンポチェ代表に聞く


チべットはどのようにして中国の支配下に置かれるようになったのか

「1949年までチべットは完全な独立国でした。50年に中国軍の侵入が始まり、51年に「十七条協定「を結びます。次第にこの協定も守られなくなり、中国側はやりたい放題やるようになった。59年に決起運動が起こり、非暴力で反対したが、ダライ・ラマ法王はインドに亡命。それ以来中国の支配下に。仏教、寺院破壊、僧侶を追放し、貴族や個人が所有していた土地も没収して国有化されました。チべット人は大麦から作るツァンパが主食だが、強制的にやめさせられ小麦を作らされた。だが、チべットの土地や気候に慣れてないので食糧の危機に陥った。このように、中国の直接、間接的な拷問、虐殺、餓死でチべット人は120万人殺されました」

現在のチべット国内でのチべット人の生活状況を聞かせてください

「70年代以降、中国の変化とともにチべットにも変化がありました。チべット第1の都市ラサは、ビルが立ち並び近代化されている。よくなっているように見えるが、そのビルに住んでいる80%は中国人。チべットは遊牧民と農民が主体で、全体の土地は日本の6倍。59年以前は各地域にばらばらに住んでいました。今、大都市のほとんどの利益は中国人のものになっている。第1、2都市は近代化されているが、全体を見てみると昔と何も変わっていない。大都市に住んでいるチべット人は、中国人に合わせた生活をしなければならない。中国語を話し、中国の服を着て、中国人と同じ物を食べている。そういう
人は、中国政府から仕事をもらい中国人と一緒に生活できるようになっている」

このような状況をどう考えていますか

「59年にダライ・ラマ法王と亡命した時には、いつか必ずチべットを独立国家にするという目的を持っていたが、あまりにも中国の軍事力、共産主義思想の影響力が大きいので、法王は79年に内実のある自治なら受け入れようと提案した。チべットは、歴史上からみても言語、生活習慣において中国とはまったく違う国。外交と防衛は中国政府に託して文化、生活、教育はチべット人自らの手で運宮していこうと提案した」

チべット国内の宗教事情はどのようになっているのか

「中国はチべットに宗教の自由を与えていない。チべット人は、仏教に対する信仰が厚く、生まれてから死ぬまで宗教に関係のある生活をしている。その中でラマは重要な位置を占めており、チべット人が心から尊敬しているのは法王である。それなのに、かつて法王が住んでいたポタラ宮殿の中には写真さえ置かれていない。チべット全土で法王の写真を所持することは禁止されている。そこにあった壁画も、法王の肖像に関するものはすべて削り取られており、違う絵が描れる予定になっている。寺院の中でも宗教の自由はなく、僧や尼僧の数も制限されている。勝手に宗教の内容を学ぶこともできず、常に監視されている。寺院にいたい場合は、法王に反対する誓いに署名させられる。そのためたくさんの僧や尼僧がチべットから亡命してきている」

チべットに対する国連の対応はどうですか

「国連ほ、チべットの現状を理解していながらも協力してくれない。中国は、国連の一員であり安全保障理事国の一員であるにもかかわらず、国連の理念を守っていない。国連は自由と民主主義の理念を掲げているが、訴えているだけでチべットには何もしてくれていない」

チべット国内の中国人の割合は

「チべット人の人口は約600万人、中国人は700万人以上いて、チべット人の人口を上回っている。そのうち半分は軍人だといわれている」

今後の活動は

「ダライ・ラマ法王の指導のもと非暴力で、中国に訴えてきたがいい反応はなかった。話し合いが一番の解決法だが、中国側は無視し続けている。世界各国の指導者や国民に、チべットの現状を訴えながら協力を求める活動をしています。理解してくれている日も多いが、現実に腰を挙げてやっているかというとそうではない。なぜなら、中国と経済的にうまくやっていきたいと考えている国が多いから。チべットの現状よりは、中国との関係をうまくやっていきたいと考えている」

チべット自治区の党委員会書記を務め弾圧を指導した新総書記の胡錦濤氏の影響は

「胡氏になって中国ががらりと変わるとは思っていない。一つの理由として、チべット国内で1人のラマ(高僧)と女性が逮捕され死刑を宣告された。死刑宣告への影響力を胡氏が持っていたのほ明らかだ。死刑宣告の容疑は、爆破テロをしかけていたということだが、そのようなことをやる人物ではない。そのようなでっち上げの理由をつけて死刑を宣告した」

ダライ・ラマ法王は現在どのような活動を行っているのか

「現在のチべットの問題すべてを法王が指導しているわけではなく、亡命政府には内閣があり46人の議員がいる。みんなが力を合わせてチべット問題を解決しようとしている。59年に法王が亡命し、60年に亡命政府ができたが、当初から民主主義に基づいた体制が取られていた。亡命して現在まで40年以上が経過しているが、チべットに帰る日が来たなら、民主主義に基づいた政府を樹立しようと考えている。昨年はチべットの歴史上初めて、首相に当たる主席大臣が一般の亡命チべット人一人一人の投票によって選出された。みんなで選んだ大臣なので法王も大臣を信頼し、大臣の発言を尊重している」

ダライ・ラマ法王は日本の天皇のような立場なのか

「天皇制と似ているが、日本の天皇は象徴的な立場で政治的権限はない。しかし、現在では内閣で決められることも多いが、法王の発言権は力を持っている。なぜならチべット人は、今でも法王を尊敬し頼っている。中国政府は、法王や亡命政府を、昔の封建制を復活させようとしている、と言って批判しているが、そのような意思は全くない。法王自身は、政治的なことには一切触れたくないと思っている」

チべットの自治獲得に向け、期待するところは

「チべットを後ろで支えてくれる一つの力にマスメディアがある。チべットの現状が記事になれば、多くの人の目に触れることができ大きな力になる。真実は真実として捉え、それを支援し協力していくことが重要だ。一人一人が真実と自由に基づいた生活をしていけば、世界そのものが平和になれる社会につながっていくだろう」



ザトゥル・リンポチェ
1941年チべットのラサ生まれ。チべット民族蜂起でインドに亡命。ダライ・ラマ法王の命により、スイス初のチべット難民居住区の指導的立場に立って活躍。スイスの大手銀行で22年間勤務の後、96年チべット亡命政府国会議員に選出。

The Sekai Nippo Co.,Ltd. 1975- Tokyo,Japan
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